真に自由な愛の教会を目指して
教会の羅針盤
【目次】
私たちの教会の名前は「リベラ」。リベラとはラテン語で「自由」の意味です。何ものにも束縛されない真の自由を目指す集まりです。この真の自由とは、我がままでも無秩序でもありません。これらを区別するのは難しいと思う人も多いでしょう。
イエス・キリストは言いました。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
ヨハネによる福音書 8章32節
キリストによって導かれた真理によって、真の自由に到達できると私たちは考えています。その真理に至る道を歩むために必要な事をここに表明します。自由を求める我らリベラにはたったひとつだけ指針があります。それは互いに愛し合うこと。しかも、キリストの愛によって愛し合うことです。ここに真のスピリチャルな教会の姿があると考えています。
リベラはキリストがこの世に来たその原点を考えています。歴史の中で社会的な必要に応じて変化してきた教会の姿ではありません。約2000年前に始まったキリストの名による教会とはどのような人たちの集まりだったのでしょうか。それを学びながら、キリストの愛によって建てられる真に自由な教会とはどのような集まりなのか、それを少し具体的に考えてみましょう。
まず聖書的な教会とは何かを簡単に定義しておきましょう。
教会は次のようにしてスタートしました。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
使徒言行録 2章1節から3節
「一同が」つまり人々がとの意味です。つまりこの点が第1に重要です。教会は一人では成立しません。人間が集まるところに教会があります。
次に、「一つになって集まっている」と書かれていますが、これは同じ考え方をしているとか、思想が統一されているなどの全体主義的な意味ではありません。現代の教会では「心を一つにして祈りましょう」などと言われる事がありますが、同じ願いを共有するよう働きかけるのも、人間の心を不自由にします。
「一つになる」とはギリシヤ語原典によれば、人々がイエス・キリストに心を向けているという意味です。各自が各々の心に従い、キリストへの思いを持つ事以外に、共通する要件は必要がありません。この時に不思議な事件が起き、歴史上初のキリスト教会が建てられました。
また、イエス・キリストは次のように約束しました。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
マタイによる福音書 18章20節
一般に教会と言いますと建物やその場所を意味していると思われがちです。しかし、建物の中にだけキリストがいるわけではありません。霊的キリストはそれほど不自由ではありません。
教会とは建物を意味しません。牧師をリーダーとして役員を決めたり委員会を作っている組織なども意味しません。土地や建物、また組織を大切な教会だと言い、それを維持しようとするならば、本来の教会の姿ではないのです。本当の教会はもっと単純です。キリストに心を向けて人々が集まっている所には、キリストが共におられるのですから、その時とその場所が教会なのです。つまり真のキリスト教会は、地域や時間に束縛されずに、何処でも、いつでも存在できるのです。真の教会は存在し、同時にまた消滅します。歴史の中でどんなに有名で大きな建物や組織としての教会も、何百年という時間の流れのなかで荒廃してしまうのです。人間によって立てられた建物や組織は、永遠ではありません。土地を取得し、建物を建て、そして組織を作り、発展永続させるべき集団、これらが教会であると誤解をすると、この世的な教会を建てる結果になります。真の教会は、常に消滅し、また現在化します。家庭の中でも、喫茶店や呑み屋さんでも、それこそお風呂屋さんでも、人々がキリストの名によって集まれば、その時そこに存在し、また人々が解散した瞬間に消滅するのです。
この視点に立ちますと、宗教集団としてのキリスト教はまったく別の意味を持ちます。つまり、クリスチャンになるとか教会員になると言う事は、特定の組織の一員になり、その組織に束縛されることではありません。真のクリスチャンとは、むしろまったく逆であり、世界中の何処でも何時でも、偏在的にキリストに繋がっていられるキリストの体としての教会の一員として、真の自由を得ることなのです。ですから、リベラのメンバーとは、リベラの集まりにさえ束縛される事なく、世界を包むキリストの体の一部となる事を意味しているのです。
ここで次の現実的な問題が直面します。
私たちが目にするところの、この世にある地域の教会とは何でしょうか。
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エペソの信徒への手紙1章23節
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
コリントの信徒への手紙12章12節
教会はキリストの体にたとえられています。イエス・キリストは世界にたった一人ですから、その体も一つしかありません。その体は多くの部分からなっています。つまり、地域の目に見える教会とはキリストの体の部分を構成しているわけです。その地域の教会を建てているクリスチャンたちもキリストの体なのです。概念的に固定化された教会も、時間の中では生成と消滅を繰り返しています。ですからキリストの体としての教会の一部なのです。たとえ彼らがその真実の姿に気がついていないとしてもです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
エペソの信徒への手紙 5章30節
さて、このようなキリストの福音の深い部分で、人の集まりとしての教会を理解すると、それは何を目指す集まりになるのでしょうか。
別の言い方をすれば、キリストの体の一部であり、その集まりとしてのリベラは、これから何を目指し、どのような教会として建てあげられたいと願ってゆけるのでしょうか。
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
エペソの信徒への手紙 4章15節
これがもっとも重要な指針です。宇宙の創造主の愛に生きることです。だからリベラの指針を一言で表現すれば、互いに愛し合うことなのです。愛こそが人と人との出会いの中で私たちを自由へ導く真理です。
神の愛は全ての人に注がれています。その愛を全ての人は受け止めることができます。歴史に残る偉大な宗教家たちは、この愛を受け止め伝えた人たちです。私にとってその偉大な愛を教えてくれたのがイエス・キリストでした。だから私は牧師になっただけのことなのです。その愛を教えてくれたのがキリストでなければ、イスラム教徒や仏教徒やユダヤ教徒になっていたかもしれません。それはともかく、現実に私はキリストによる愛を知る者です。ですから、キリストの愛に立つ事を、多くの人々との出会いの中で共有し、私が出合った人々がさらにキリストとスピリチャルな出会いが出来るように願いつつ、キリストの愛に養われるように、この人生を送りたいと願っています。
真のキリスト教会を目指すリベラが、キリストの愛に立つ集まりとして成長することを忘れずに常に意識し、またその方向を見失なわないためにも、教会の歩んでゆく指針は必要なものです。この教会の指針とは、教会が組織として掲げる標語ではなく、また規則や信仰の基準でもありません。規則や基準は、それに従うことを要求し、心を不自由にさせ、人間を表面的な善人にしてしまう危険性を持っています。指針とは、この世を歩む私たちが、イエス・キリストを見上げつつ、聖霊の導きにより頼みつつ、神の言葉と共に歩むための、方向を指し示しているものです。
この指針をあえてたとえるならば、「教会の羅針盤」と表現できるかもしれません。羅針盤は進む方向を指し示します。しかし、それは行かねばならない一本道ではありません。羅針盤があるからこそ、どんな方向へも行ける自由と確信が持てるのです。規則や基準、世間的な道徳などは狭い一本道を歩くようなもの。もし、その道が土砂で埋まり、また橋が壊れていたら、もう進むことができません。人生を先入観にとらわれずに生きるのは、海を航海するよ
うなものでしょう。どこにでも行ける自由と同時に、どこに行くか分からない不安と危険が共にあります。ここに表明する指針とは、私たちが大海原を自由に旅するために方位を教えてくれる羅針盤なのです。どこにでも自由に、確実に到達するために。
キリストの愛に立つ真の自由な教会を建てあげるため、私たちは、この羅針盤を大切にしてゆきたいと願っています。
【聖書解釈の基本】
これは私の愛する子。これに聞け。
マルコによる福音書9章7節
教会の歩みにとって最も重要な指針は、イエス・キリストに聞くことです。自由な聖書解釈を提唱する人々にとって、各人が聖書を読み心に感じるままの理解が、キリストからの語りかけだと考えているようです。しかしながら各個人が直感的にキリストの言葉を聞く事には危険があります。それは、霊的なキリストからの語りかけと思い込みながら、実は自分の心の声でしかないかもしれないという危うさです。今も生きているキリストですが、残念ながら人々が集まりキリストから直接同じ言葉を聞くことはほとんどできません。特別に神から選ばれて、キリストの言葉を聞いたと主張する人もいるかもしれません。歴史の中でキリストの名によって立てられたリーダーたちもそのような人達でした。それらのリーダーの多くは、迫害や差別、さらに戦争さえ起こしたのが現実です。これらは個人的な解釈や思い込みの結果です。「聖霊の語り掛け」の名のもとに、個人の勝手な聖書解釈をしては危険なのです。ですから、人の集まりとしての教会が持ちうるキリストからの語り掛けとは、個人的、直感的なものでは不確実なのです。
聖書解釈に何かの基準を作る事は、不自由な解釈を強制するようにも聞こえます。しかし、キリストの言葉は、本来の聖書の確かな解釈から示されなければなりません。解釈の基準ではなく、聖書を解釈する時には重要な要件があり、それを指針として聖書を読むのです。そうすれば、万人に対する神の言葉が聞こえてきます。その指針とは、やはり愛なのです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。
マタイによる福音書22章37−40節
旧約聖書はいくつかの分類された書物の集まりですが、神からの語りかけとしては律法と預言です。新約聖書はその律法の完成と預言の成就を記しています。すると、聖書全体は、イエスの言うようにこの二つの掟に基づいているわけです。
「基づいている」と訳されている言葉は、「ぶらさがる」との意味が本来のものです。つまり基礎としてその上にいろいろな教えがあるとすると、基礎の上にどんどんいろいろな事を積み上げることができます。しかし、ぶら下がるのであれば、その基本にいくらでも自分勝手な教えを付け加える事はできません。あまりに重いものを紐にぶら下げると、紐は切れてしまいます。ですから、聖書全体がこの二つから離れて解釈されてはならないのです。一言で言えば、神を愛し人を愛する、その他の事柄に解釈されてはならないのです。
リベラが目指す初代教会では、この指針は受け継がれていました。
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。
ローマの信徒への手紙13章8節
長いキリスト教の歴史の中で、この聖句は重要なものである事は理解されていましたが、それがどれほど聖書全体を規定しているのかが忘れられてきたのではないでしょうか。この解釈の指針を持たないとき、教会は人々を罪に定め、非難し、差別し、迫害し、戦争をしました。教会の分裂や対立もこの指針を失ったために起きました。自分たちこそが聖書解釈の上で正しいと主張しあう、多くの神学論争も歴史の中で起きました。そして、相手を異端者と呼び、悪魔の手先のように罵りました。もし、彼らが聖書を愛の指針を持って解釈し、愛に基づいて論争したのであれば、彼らは愛し合いながら、討論した事でしょう。聖書を愛に基づいて解釈された時に、人間は自由と平等において出会い、語り合い、討論し合うことができるのです。
ですから、私たちは聖書の全ての箇所が常に神と隣人と自分を愛することから理解され、また同時にそこに帰結するものとして読んでゆきます。
人間はなぜこの宇宙に存在するのでしょうか。なぜ、私と言う個は今ここにあるのでしょうか。人生には何か絶対的な目的があるのでしょうか。その答えを探すのは、大変難しいかもしれません。
聖書解釈の基本がキリストの愛にあることがわかると、私たちが何を目標として人生を歩むかも明確になります。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5章48節
人間は神と等しくなることはできません。しかし、完全な者へ向かって人生を歩むように示されています。完全な人間と言うと、悟りを開くことをイメージするかもしれませんが、キリストの教えでは少し別の表現ができます。完全な人間になる人生の道がどのようなものかも、基本を考えればはっきりとわかります。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
コロサイの信徒への手紙3章14節
私たちが目標とする完全な者とは、愛を身につけたものなのです。そこで、さらに次のことが言えるわけです。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙 1 13章13節
ここで書かれている事は、神を信仰することが私たちの最も重要な目標ではないと言う事です。もっと重要なのは神を愛し、人々を愛し、地球の全ての存在を愛することです。キリスト教ではとても有名なこの箇所が、書かれているままに解釈されずに、愛よりも信仰を大切にする教会が多い現実を、とても残念に思います。
多くの人々の人生において、最も悲しく辛く苦しい経験は、愛する人を失った時です。つまり人間にとって根源的な喜びは愛にあるからです。人間にとって最も必要なのは愛なのです。
信仰を持ったキリスト者は、神の栄光を称えるためにも愛を熱心に求め、それがまた信仰の証しになります。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
ヨハネによる福音書 13章35節
信仰は、より深く大きな愛へのスタートになります。そして信仰は、キリストの愛を受けつつ、その愛を人々と分かち合える力となります。愛こそがキリスト者としての本来の目標であるから、それが同時にキリスト者としての証でもあるのです。
ところが、この目標へ進みたいと願う私たちには大きな問題が立ちふさがっています。
現代の私たちは数多くの社会問題を抱えています。犯罪の増加と低年齢化。登校拒否やうつ病の増加。政治不信。企業の不正。これらは現代社会の特徴として捕らえることもできますが、「愛」に視点を当ててみると、数千年前に書かれた聖書にもこれらの原因が明らかにされています。つまり、人間が古代から持っているその本質に問題があるのです。現代は自由な社会です。しかし、古代においてもそれなりの自由はありました。自由は人間の尊厳にとって、とても重要なものであります。しかし自由の概念は、わがまま、自己中心と混同される危険があります。
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤの信徒への手紙5章13節
自由である社会でこそ、人間が生きる上での指針が必要になるのです。人と人とがより深く互いに愛し合うという目標を失った時、人は愛さえ自己中心的なものになり本来の方向を見失うのです。
そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
テモテへの手紙 2 3章2節
愛と言ってもいろいろな愛があります。わがままな人やストーカーなどは自己中心的な愛の典型でしょう。しかし、よくよく自分を内観してみると、誰でもがこのような愛に陥りやすい事に気がつきます。たとえ社会的にリーダーの立場にいる人であってもです。そして、その自己中心的な愛が政治や社会に広がってしまうと、それが社会全体に影響をし、社会問題の根源的な原因となるのです。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
マタイによる福音書24章12節
私たちは現代社会の中で多くの愛を知っています。地震やその他の大きな災害の時、実に多くの人の愛が実践されている事に感激を覚えます。しかしながら同時に社会は愛の二重構造であることも事実です。社会の建前として人間愛は人生で最も貴重だといわれることがありますが、実際の社会では財産、権力、地位、人脈などが重要なものとなっています。
争いごとを人間は口先で否定します。社会の中での愛の喪失を口先で非難します。しかし、他人を評論するその人自身も争ったり、愛の歪みを持っているのが本当の姿ではないでしょうか。人と人との心のふれあいや助け合いが大切であると言われながら、現実には競争原理が社会の中心にある。どんなに愛が叫ばれようとも、現実には愛が冷えてゆき心が荒むのです。愛における現実と標語の矛盾を愛の二重構造と呼ぶことができるでしょう。こうして歪んだ現代社会が出来上がったのです。
この原因は、一部の人だけにあるのではありません。愛の二重構造は個人から始まります。神と人と自分を完全に愛せない、私たち人間の本質に原因があるのです。
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
ヨハネの手紙 1 1章8節
人間の目から見れば人格者や立派な人はたくさんいます。クリスチャンが一般的には良い人間だと思われています。その代表者である牧師などは、人格者であると見られ、またそのように振舞っている人が多いようです。しかし、最も大きな問題は、クリスチャンが罪のない人のふりをすることです。信仰を持ちながら自己主張が強く自己正当化傾向の強い人達は、自分でも自分の本当の姿が見えなくなってしまっているほどに、自らを欺いているのです。ここに現実の姿と、言葉で語られる愛の二重構造ができるのです。どんな人間でも神の前には罪があると聖書の多くの箇所が述べています。ここから本当の愛がスタートするのです。罪とは愛の貧しさや歪みです。究極的で完全な愛を、人間は簡単には持てないのです。クリスチャンとしての信仰を持っても、たとえ牧師になっても、それだけですぐに完全な愛を持てるわけではありません。むしろ自分の罪を自覚し続けることが、愛を深める真理を得ることなのです。
私たち人間は誰でも生まれた時からすでに愛を持っています。しかし人間なら誰でもその愛は不完全であり、限界があります。人生の歩むべき方向を見失う時があり、愛の歪みもできてしまうのです。
では、クリスチャンはどのようにして愛の目標へ進むことができるのでしょうか。
人間の愛には限界があります。人間を超えた愛、究極で完全な愛の源泉を聖書では神と呼ぶのです。
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るものです。
ヨハネの手紙 1 4章7節
愛に乏しい私たちは究極の絶対的な愛を受け取ることで、自分の愛をより豊かに、さらに歪みを正し、愛の指針を見出すことができます。
しかし、その前に重要な事柄があります。第1に私たちが愛に乏しい存在であるという現実を自覚すること。聖書的な表現では、自分の罪を自覚することです。しかし、その自覚だけでは自己嫌悪の暗闇に落ちてしまいます。そんな人間の本質的人格に対し、神はまず、私たち人間のもつ問題点を赦すことをされました。それがイエス・キリストの十字架であり、神の愛の啓示です。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ヨハネの手紙 1 4章10節
神は私たち人間が完全な愛を持っていない現実を受容します。それが宇宙の創造主としての愛なのです。聖書的に表現するならば、キリストの十字架によって私たちの罪を赦し、愛を示してくれました。キリストは十字架の上で、自分を処刑する人々の赦しと祝福を祈りました。つまりキリストの福音とは、私たちの愛の不完全さを赦すことで、人間の愛を超える大きな愛を示されたのです。私たちが否定して考えている人間の負の部分が赦されたのです。私たち人間の暗い側面、争いも、嫉妬も赦されました。ここにまず、真実の自分でいることのできる自由があります。自分らしく生きられる自由です。神は人間をそのままでも愛され、愛の貧しい者のままで受け入れてくれると約束されました。ここに神の愛が始まります。
さて、クリスチャンによっては誤解をしている人もいるようですが、十字架の赦しもキリストによって示された神からの愛も、信仰する者だけに与えられるわけではありません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5章8節
「私たちが罪びとであった時」つまり人間に共通している根源的愛の貧しさにある時です。神を知らず、キリストの愛の道を歩んでいなかった時です。その時から、神は愛を示してくださいました。ですから、神は地球上の全ての人間を愛していると言う事です。善人も悪人も等しく愛し、クリスチャンも他の宗教をもつ人も信仰のない人も分け隔てなく愛しているのが本当の創造者です。神は神が創造された宇宙の全てを良いものとして愛しているのです。
神の目から見て、クリスチャンは特別に優れた人間ではありません。特別に深く愛を与える対象でもありません。なぜならクリスチャンになると言うのは、人格が大きく変化することを意味しません。ただ、キリストの十字架の意味を知ったと言う事、そして宇宙の創造主が今、自分を愛していると知ることなのです。
ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
ヨハネの手紙 1 4章11節
真のクリスチャンとは、愛こそが人生の目標であるとはっきりと言える様になるだけの事です。とてもシンプルなことなのです。
一般的に宗教ではその宗教信者になることを、その宗教が教える神を信仰することと定義できるかもしれません。しかし、キリスト教では神を信仰するだけではクリスチャンとは言わないのです。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
マタイによる福音書7章21節
どんなにイエス・キリストを信じ神に心から願い事を繰り返しても、愛を忘れるならばクリスチャンではないのです。その意味で、クリスチャンになると言う事は他の宗教のように、その宗教団体に属し、その宗教の信者になる事を意味していないのです。
クリスチャンとはキリストの愛を知り、その愛の道を歩もうと願うことだけで十分なのです。自らの良心に従ってキリストの愛を受け取りながら人生を歩む真に自由な道がここにあるのです。
もちろん、私たちは愛の乏しい今のままで神から受け入れられています。ですから、今のままでいる自由もあるし、愛の道を歩もうとする自由もあります。ここで一つの注意は、クリスチャンだからすでに愛が豊かであるように無理に人を愛そうとする必要はありません。愛は義務でもなく、基準でもないからです。それは自由な選択による目標なのです。
ただこの選択により愛に豊かであろうとする人生の目標は、私たちを喜びで満たします。
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
ペテロの手紙 1 1章8節
愛は私たちに喜びを与えます。またその喜びはさらなる愛の力となってきます。こうして愛と喜びが向上する循環が出来上がり、自然体のままで豊かな愛の実を実らせることができるのです。
しかし、私たちが愛の力を得られるのは、自分の努力や情熱によるものではありません。もし、人間がもっと大きな愛を持てるように努力しようとしても、それはある意味で苦しくなるはずです。
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
エペソの信徒への手紙 3章17節
私たちの内にキリストが住んでくれるとは、自分が少しずつキリストのような人格に変えられてゆく経験と表現できるでしょう。まったく別の表現をするならば、宇宙の創造者のエネルギーを日々いただいて、自分の人格が愛に豊かにされてゆく経験と言えます。太陽の光を浴びると体が自然と温かくなるのに似ています。自分の力ではなく、キリストの愛の力によるとは、このように喩えられるでしょう。
キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。
コリントの信徒の手紙 2 13章4節
人間には限界があります。私達には弱さがあります。これが、福音のスタートでした。だからこそ、罪も弱さもキリストのゆえに神の力によって克服してゆけるのです。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙5章5節
聖霊とはとても神秘的な事柄です。聖霊に満たされるとは、神の力が自分に働いていて、愛が湧き上る状態と表現することができます。また聖霊が私たちを真の自由へと導きます。
ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙 2 3章17節
以上をまとめると、父と子と聖霊の三位一体の神の神秘において、私たちは自由に至り、その自由においてこそ、私たちに愛が注がれ私たちから愛が流れ出てゆくのです。これこそがキリストの福音の奥義なのです。
人間の感情的な愛を超越し、神の愛が注がれて、完全な者になれるように歩む私たちにとって、理想の世界像はとても明確です。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイによる福音書 5章44節
無神論を唱える人々からは、私たちは愚か者に見えるでしょう。キリスト教以外の宗教を信仰している人々からは、忌み嫌われるかもしれません。さらに、愛よりも信仰や教義や組織としての信仰集団が大切だと考えるキリスト教徒からは、私たちは異端者と呼ばれるかもしれません。それでも私たちはどんな人々とも互いに愛し合いたいと願っています。
そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです
コロサイの信徒への手紙 3章11節
私たちは神の愛の道を歩みつつ、全てのもののうちにあるキリストを見出して行きたいと願います。宇宙の創造主の愛によって人生を歩むなら、思想、宗教、人種、国家などを超えて全ての人類が愛し合える世界があると示されているのです。これが私たちの理想の世界です。全ての人が自由と平等である世界です。
残念ながらキリスト教を含めた多くの宗教が、その神の名によって戦争を起こしていると指摘されることがあります。私たちが掲げた聖書解釈の基本から始まる愛の指針を見失ったキリスト教は、確かに戦争を推進してしまう道具として使われることもあるのが事実です。教会の中に争いがあり、分裂するのも現実です。だからこそ、私たちはこの「教会の羅針盤」を作成しました。リベラはとても少人数の集まりですが、イエス・キリストの愛に立つ教会として、キリストの愛の素晴らしさと世界平和への道を、全世界に発信してゆきたいのです。
理想の世界に向かって歩むには、具体的な日常の歩みを大切にしなければなりません。究極の目的への道も一歩づつの積み重ねなのですから。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
ヨハネの手紙 1 4章20節
キリスト者としてどんなに深い信仰を持っていても、敵意や憎悪、偏見や差別によって愛が失われるならば、それは虚しい信仰なのです。キリストの名の下に教会や教団を守るためなど大義名分によって、誰かを迫害し、敵対し、犠牲にするならば、それは偽り者の集まりなのです。本来の信仰は豊かな愛を養うためにあるのですから。
本来の信仰の実践はすぐ隣にいる兄弟姉妹と愛し合うことから始まります。だから私たちには、場所と時間に限定された教会の集まりが必要なのです。聖書の学びで愛の具体的な要件を学びます。礼拝を通して神とスピリチャルなコンタクトをします。さらに、人と人とが出会う教会において、愛の指針を共有し、互いに愛し合う経験をします。その豊かな経験をエネルギーとして、教会から日常の生活へと帰り、教会での愛を多くの人々と共有する事ができるのです。
ここで、日常生活における愛の基本とも言える夫婦の愛について聖書を参照しましょう。
また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
エペソの信徒への手紙 5章24−25節
聖書は夫婦の愛をキリストと教会の関係と同じような奥義として表現しています。つまり、夫婦愛はそれほど奥が深いということでもあります。一体誰が、キリストが教会を愛したように、自分の妻を愛することができるでしょうか。キリストのような愛に豊かな人格になるのは、人生をかけた長い道のりでの目標なのです。
教会がキリストに仕えるのも同じです。現実を見れば分かるように、教会は愛を見失い、迫害や差別をします。争って分裂したり対立さえします。愛によってキリストに仕える教会の姿もまた、追い求めなければならない遠い目標なのです。この聖書の箇所は、人々への勧めであって、すぐにそのようになれる人間の姿ではないのです。
この事実に気がつかなければ、夫婦愛を深める道が見えなくなるかもしれません。キリストと教会が愛し合っている状態をすぐに夫婦間で実現できるとの幻想を持つ事と、結婚が二人の生活のゴールであると誤解をするのと似ています。結婚においては、結婚式を挙げることが目標ではなく、その後の長い結婚生活を通して、夫婦の愛を深める道を歩むことが大切なのです。
日々の愛を大切にするということは、「夫婦だから愛し合っているはず」とか「夫婦は愛し合うべき」などと単純に建前的な標語を掲げることではありません。これでは、愛の二重構造を作ることにもなりかねないのです。信仰によって養われる愛とは、まず人間が愛に貧しい存在である自覚から始まります。そして愛の歪みを持っている自分をキリストの愛によって自己変革をする歩みを大切にします。
同じように、夫婦愛は、冷え込んだり歪んだりすることがある現実を認めなければなりません。その上で、どのように愛を深めるのか、その道が重要なのです。
どんなに歴史的に大きな教会であっても、時間の流れの中で消滅します。キリストは永遠であるのにそのパートナーとしての教会は有限です。教会の本質を理解しない人には、これは大きな疑問となるでしょう。しかし、本来の教会は生成と消滅を繰り返します。
社会的先入観に囚われることなく、たとえ結婚して夫婦になっても、二人の愛の結論として別れを決断することも、一つの道なのです。なぜなら、日常の愛さえも常に生成と消滅を繰り返しているからです。
人間の愛は不変ではありません。人間の愛は無限ではありません。だから、日々の生活においても神の絶対的で完全な愛が必要なのです。
私たちの現実の姿を受け入れてくださる神の愛により頼みつつ、キリストの愛の奥義を捜し求め、聖霊に導かれるように祈りつつ、日々の愛をやしなって、豊かな人生を送ることができるのです。
愛を深め合っている人々には祝福を、愛が冷えた人々には再び愛が芽生えるように希望が、別れを決意した人々には新しい愛への恵みが与えられるのではないでしょうか。
理想の世界への日常の一歩が大切なように、「キリストの愛に立つ教会」を目指すとき、現実の教会運営についても、指針が必要となります。教会運営においてまず念頭に置かれるのが、礼拝や集会への出席率、教会の予算とそのための献金、奉仕者の数と仕事量です。
献金については次のように書かれています。
それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
ルカによる福音書11章42節
この世にある組織体としての教会には、その運営のために献金や奉仕は必要なものです。これらをおろそかにしては、組織は成り立ちません。そこで、献金や奉仕を義務として教えたり、信仰のバロメーターと言ったりする教会もあるようです。もっともキリストの愛から離れた教会は、毎週の礼拝出席や毎月の献金や奉仕を、神との約束として強制的に行わせます。
しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
マタイによる福音書5章34節
私たち人間は神に誓う事も、人間の側から神と約束をする事もできないのです。神と人間との約束は、神がキリストの十字架によって示した、神の側からの愛だけなのですから。
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
コリントの信徒への手紙 2 9章7節
どれほど多くの献金も、どれほど多くの労力を使った奉仕も、喜びのないものならば教会を汚します。また、礼拝や教会における行事などについても同様です。これらは、強制される事なく、神から与えられている完全な自由のもとに各人が決める事なのです。献金額も奉仕の内容も、イベントや礼拝への参加さえも、人が他人を判断する材料にしてはなりません。
キリストの愛に立つ教会は金銭や労働奉仕によってのみ維持運営されるのではありません。
どんなに多額の献金が集まっても、土地や建物が建てられ牧師の給料が支払われるだけの事です。どんなに多くの信者が労働奉仕をしても、教会の仕事が遂行されて行くにすぎません。それらで真の霊的教会が建てられるのではありません。スピリチャルな教会は、スピリチャルな要件によってのみ建てられるのです。聖書に書かれているように、教会は神への愛と、正義としての人々への愛によって建てられるのです。喜びの献金も奉仕も愛から湧き出るものでなければならないのです。信者としての義務や信仰の基準ではありません。
現実の教会運営と言えど、これが最も重要な要点なのです。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
エペソの信徒への手紙4章16節
ここで言われている「体」とは教会のことです。この体には、三つの要素が重要です。教会員が「補い合い」、それぞれの「分に応じて働き」、「愛によって」建てられるわけです。つまり、献金や奉仕について解釈すると、次のようになります。
各人にはいろいろな理由があります。献金がまったくできない場合があります。経済的に豊かではなくても、多額の献金をする人もいます。奉仕がまったくできない状況の人もいます。大切な時間を割いてまで、奉仕をする人もいるでしょう。それらの人々が助け合い補い合って、共に愛によって集えるのが私たちの目指す教会なのです。ここに真の自由な教会があります。
何事も愛をもって行いなさい。
コリントの信徒への手紙 1 16章14節
真の教会において行われる事と行われない事のすべては、愛によるのです。
理想を胸に愛の道を歩む私たちに、神は具体的に何をしてくださるのでしょうか。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
ローマの信徒への手紙 8章35−37節
世界の中のどのような宗教に属していても、どんな信仰を持っていても、艱難も苦しみもやってきます。
この世的で物理的なご利益を求めるのが、私たちの信仰ではありません。どんなにキリストに対する深い信仰を持っていても、私たちの人生が物理的に豊かになり、心に波風が立たないわけではありません。困窮したり、苦しみや悲しみに襲われることがあります。私たちが人生に勝利したと言えるのは、ただキリストの愛に包まれているからなのです。スピリチャルな次元においてのみ祝福されるのです。つまり、肉体的社会的には私たちは多くの事柄に囚われてしまいます。しかし霊的には、キリストによってそれらから解放され自由の身となれるのです。つまりこの世でキリストの愛に生きる道は、現実の苦難に打ち勝つ心の力、愛の力を与えてくれるのです。
私たちがこの羅針盤に従って歩んでも、神のような完全な者になれるとは限りません。むしろ、人生の最後の時にわずか数歩しか歩んでいないように思うかもしれません。
また、リベラがこの羅針盤を世界に発信しても、世界の人々が互いに愛し合うという究極の目的には遥かに遠い世の中でしかないかもしれません。しかしそれでも、私たちはこの世での歩みの最後の時に、素晴らしい喜びに包まれると約束されています。
神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
ユダの手紙1章21節
この希望を胸に、愛による自由を求めて、私たちは人生を歩んでゆけるのです。
2007年12月24日 作成
著作者 常田正行