真の教会と偽の教会
第一章 真の教会はスピリチャル、霊的であり、偽の教会は物理的である。
1)偽の教会は教会員の増加を目標として掲げる。ここでは教会員数の増減や礼拝出席率などの統計が記録され、集計され、それをもって教会が良好か不良か判断される。この目標達成のために、キリストの名によって「大宣教命令」が発信され、教会活動の多くが信者獲得のためのものとなり、この伝道活動に参与するものが教会の中心的存在といわれる。
真の教会は互いに愛し合うことを目標として掲げる。ここでは、二人以上がキリストの名によって共に祈る事だけで、十分だと考える。祈りと共に「自分自身を愛するように隣人を愛せよ」との第一の掟が想起され、その実現のために多くの霊的エネルギーを費やそうと願う。この目標達成への努力は誰にも判断される事なく、またこの教会の中心的存在は常にイエス・キリストである。
2)偽の教会は教会員制度による教会員によって成立する。ここでは、形式的に信仰の基準が決められ、その基準に適応するか抵抗するかを真剣に吟味される事なしに、教会員となれる。なぜなら教会員の増加が第一義であるからだ。教会員には、この世的な義務と権利が与えられる。献金と礼拝出席の義務が課せられ、長期間にわたりこの義務の不履行があった場合、教会員としての権利も剥奪される。こうしてここでは、義務を行う者による教会が形成されている。
真の教会は、その時その場にいる者によって成立する。なぜなら、キリストの名によって集まる者全てが、神によって集められたと信じるからである。ここでは、信仰の基準など存在せず、信仰者であるか無いかさえ問われる事はない。教会員とは個人の集合意識における自覚の問題であり、スピリチャルな教会においては、教会員に義務も権利も存在しない。ゆえにこの教会は教会員と非教会員の区別なく形成されうる。
3)偽の教会は信仰の基準と組織化によって認知される。ここでは、この世における各種の組織や団体と同様に、構成員と非構成員が区別され、構成員がさらに組織化された役割を引き受けることによって機能した時、他者によって承認される。
真の教会は、神によって集められ、その場にいる人と人とのハートやスピリットの結びつきによって認知される。ここでは、この世におけるいかなる組織や団体とも異なり、固定の構成員を必要とせず、また組織化も必要なく、集団を運営するための議決も存在しないが、愛による行いによってのみ、他者から承認される可能性を持つ。
4)偽の教会は献金額の増加を願い、減少を悲しむ。ここでは、献金額が信仰のバロメーターと言われ、献金額によって教会内での発言力が決まり、役職が選ばれる。なぜならば、献金額の増加は、「聖職者」等と呼ばれる者たちの給与の増加に直結し、また教会の目標達成のための教会活動の基礎となるからである。献金額の増加のために、「神への献げもの」が教え込まれ、収入の十分の一の献金が正しい事とされ、実行するものが信仰者の規範とされる。
真の教会は一人ひとりの内に神の愛の満ち溢れる事を願い、愛の貧しさを共有する。ここでは、和解と共存を願い、不和と争いを悲しむ。隣人を愛せない自己の貧しさの自覚が信仰の基礎となり、その故に「自分自身を献げる」こと、つまり自分がキリストの霊性にあずかれる事こそが、信仰者の道となる。
5)偽の教会は、新しい教会堂やその他の施設等の建築や取得を喜び祝う。ここでは、目に見える物、やがて朽ち果てるものを「信仰の証」と呼び「神の恵み」として感謝する。この喜びのために、さらに多くの献金が要求され、多くの献金を集め実現した者が賞賛される。逆に、伝道しない者、献金できない者は「教会の力」とは認められない。また、これらの建築物なども「神への献げもの」として喜びの祭典を開くが、物質に執着し「自分たちのもの」として、その使用や維持管理に心を砕く。
真の教会は、どのような者でも、それぞれの個性とその存在の尊厳において互いに集まり、神の愛によって結ばれることを、キリストの体を建てることとして喜び祝う。ここでは、目に見えないもの、朽ちる事のないもの、つまりスピリチャルな事柄にこそ、「信仰の証」と「神の恵み」を確認する。この教会は霊的であるからこそ時間にも空間にも束縛されず、教会堂を取得する必要もなく、いつ、どこでも存在できる。そして、人間によってなったものではないので、この教会を所有するリーダーも聖職者も必要としない。ここでは、互いの個性によってどのようにキリストの体としての結びつきが具現化するのかを、真剣に求め心を砕く。
続く。